2019年5月3日、わたしは、令和の10連休を利用して、里の両親に会いに行ってきました。

現在、自分は東京に住み、両親は東北に住んでいます。

 

私の母は、自身が認知症だと自覚している認知証です。

新しい記憶を作ることができないので、昔の記憶に基づけば、感性が豊かで哲学な話もできるのに、会話が終わると、

「あなたは、今、どこに住んでいるの?」

と最初に戻るのです。

 

昨年(2018年)の10月の末に訪れた時は、うっかりしたことにデイケアの日で会うことがでず、その後の母は眠っている時間が増えたのか、電話でも話すことが少なくっていって気がかりでした。

認知症であることに、母は「自分が生きている意味があるのか」と、私に悲しげにいいます。

そんな時は、「お母様が、ママが、生きていてくれるだけでいいの」というのですが、どれほどの慰めになっているだろうかと、電話の後にいつもため息が出てしまうのでした。

老いとは、酷なものだと感じるのです。

あれほど気位の高かった母の声に力はなく、親が弱っていくのを見るのは辛いものですね。

わたしは自分の母を見て認知症イメージが変わり、ひと口に認知症といっても、さまざまな症状があるのだと、改めて知ることになりました。

 

母の記憶を引き出す歌や故郷の動画を準備する

母は、戦前にあった国、満州国の奉天と新京で、貿易商だった両親と共に15歳くらいまで過ごしています。

彼女の得意なことはフィギアスケート、陸上短距離走、絵を描くこと、刺繍など。

母の3歳年上の兄である伯父は、18才まで過ごしているので、二人とも故郷喪失者と言えます。

(自分の家族の話ではありますが、この引き揚げで、祖母は子供を二人、そして私の祖父である夫を、金歯を奪おうとした中国人の暴漢に襲われ亡くしています。)

 

経済的に恵まれ、満鉄(南満州鉄道株式会社)の総裁のお嬢さんと同級生だったとか、庭師の入る庭園の話とか、母の優雅な生活は小学生のころに聞かされても想像ができませんでした。

なにせわたしは、小学生の当時、2DKのアパートに住んでいるサラリーマン家庭の子供で、往時の写真もなく、理解するのは無理な話でした。

ネットの時代になり、画像を簡単に見ることができたり、母と同世代の方から満州国の写真集を見せたいただいたりして、ヨーロッパの影響を受けた、壮麗で優雅な建物が連なるこに、ただ驚きました。

(画像は、Wikipedia、新京より)

わたしが、還暦に近い年齢でやっと分かることは、母は幸か不幸か、基盤となる感性や郷愁を感じるものは、外国で養われてしまったというとです。

そして、その国はもはやないということでした。

話は、少しそれますが、私が小中高と過ごした街は生まれた街ではないのですが、自分の故郷だと感じています。

その街は父の転勤先だったので、異動で実家は別の街に移りました。

今の実家のその家も街も、同級生がいるわけではないので、私は育った街の方が恋しくてたまりません。

考えて見れば自分の母は、その国も文化圏もなくなってるのだと…。

その喪失感…、自分を育んだ土台が消滅していること。

それは想像を超えた辛く切ないことなのだろうということに、私自身が還暦に近い年齢になって、やっと思いを馳せられるようになりました。

今回は、パソコンのYouTubeに、わたしが幼い頃から小学生あたりまで、母がよく歌っていた歌を集めて「家族の思い出」というカテゴリーを作り、また、母の満州国時代、奉天と新京の当時の様子を記録した動画も見つけておきました。

少しでも、母の記憶を呼び覚まさせたかったのです。

母は、シューベルト のアヴェ・マリア、アンブロワーズ・トマのオペラの「君よ知るや南の国」、ショパンの「別れの曲」などを、美しい日本語歌詞でよく歌っていました。

わたしが記憶していた歌詞の断片から、Googleで調べると、それは全て堀内敬三の作詞だったことがわかり、彼を調べていくうちに、母が昔歌っていた歌に、たくさん出会うことができたのは嬉しい驚きでした。

YouTubeなどでそれらを聴いていると、溌剌としていた頃の母が思い出されて、懐かしくも切なくなってしまいましたが。

 

歌は、映像は、瞬く間に記憶を呼び覚ます

私が行ったとき、母はやはり眠っていました。

父が私が来たことを告げて、母を起こすと穏やかな笑みを浮かべ、でも、頭の中は霧がかかっているような様子でした。

歩くのもおぼつかなくなっている母は、それでも居間のソファーに身を沈めて、音楽を聴き始めました。

「ああ、懐かしいわ。ここの高音を出すのが、歌う時に難しくてね。」

よく歌を歌っていたのは、生活が大変だった聞いている私が小学生の頃です、わたしも幼かったな。

母は大学卒業後に英語教師として働いたので、結婚は昭和ヒト桁生まれとしては遅くて30歳、私が小学生の頃は、すでに40代になります。

歌とともに、私が小学生の頃の家族の思い出に、昔に帰ったように話に花が咲きました。

そんな時は、一瞬、母が認知証であることを忘れ、私はただの娘に戻れます。

 

母の住んだ街の一つ、満州国の国都だった新京のYouTubeを見つけてあったので、それを見せてみました。

母は、長時間起きていることが困難な様子でしたが。

頭がはっきりとしていることは自分でも分かるようで、少しでも娘である私との会話を続けようと、必死で意識が遠のいていくのと戦っている様子でした。

それでもこの動画を見せると(新京駅の表示が3ヶ国語で、出だしからインターナショナルで驚いたわたし。市内の移動は、タクシーや観光バスなのか…。)、

「ここは覚えている、ここも覚えているわ、ここも。ここも。」

と、はっきりとした口調で話しはじめました。

すると、私にとっては単なる記録で、正直、実在したかも実感のないこの映像が、俄かに現実味を帯びてくるのです。

母は、こんな風景の中で多感な時期を過ごしたのだと。

そして、母に見せることができて良かったと思うと同時に、認知証になる前に見せて、もっと色々な話を引き出しておきたかったと思うのでした。

「リュックサック一つで、引き揚げてきたのよ。」

「日本に来たら、お家が紙と木でできてるから驚いたのよ。」

子供のころも聞いたこの言葉は、動画を見ながらだと素直に理解できました。

本当に、全てを失ったのだなぁと。

 

「全ては過去になっていくのね」という言葉を聞いて、そして自分を思う

ひと時、私と過去へと旅をした母は、ふと、遠くを見るように虚空を見上げ、

「全ては、過去になっていくのね…。」

と言ってわたしを見ました。

返事に詰まりました。

未来の時間がわずかしかない母に、なんと言ったらいいのか…。

「大丈夫よ、わたしが覚えているから。だから大丈夫。」

返事にならない言葉でしたが、こう言うことが精一杯でした。

 

そして、母との会話は終わり、また始まりました。

「あなたは、今はどこに住んでいるの?」

 

自分も還暦に近くなり、今まで生きてきた時間より、これから生きる時間の方が少なくなりました。

まだ自分の同じ年代の友人、知人は元気ですが、まずはわたしの祖母、そして若い頃から親しんだ作家の方、俳優、尊敬する著名人は、次々と逝ってしまわれ、ものすごい勢いで過去になっていく感覚があります。

その大きな過去への流れを見ながら、あるいは振り切って、未来を創造しようとする努力が、中高年、あるいは老齢の達した方の魅力なのかもしれませんが。

歳を重ねれば、目が見えづらくなる、体が思うように動かない、記憶力が衰えるなど、日常の不便が加速度的に増えていく中で、未来に視点を向ける…、果たして自分にできるのかという思いがあります。

老齢に達した方が、自分を分析して情報を発信している例はまだ極めて少ないせいか、そのメンタリティに関しては、大雑把な理解しかされていない感じがしています。

両親の老いを通して、自分のメンタリティの変化も観察していこうと思います。

 

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マリ

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